
絶対に風化させてはいけないこと
もう14年も前の3月11日 14:46。
日本を変える大きな地震がありました。
その被害は甚大で、今でも苦しんでいる人がいます。
直接に被害に遭った人は当り前ですが、それ以外の人も大きな被害を受けた出来事でした。
あれから14年も経ったので、当時のような雰囲気は無くなっています。
また、被災した現地に行くと、何事もなかったように綺麗な場所が広がっています。
ただ、本当はそこには色んな人の生活も、命も、未来もあったんです。
それが、何事も無かったように、そして綺麗になっています。
このことをどう思うかは、各個人色々あるでしょうから、私は何も言いません。
しかし、このことを後世に伝えなきゃいけない責務があることは痛いほど理解しているつもりです。
皆さんも色々な立場や状況があるでしょうが、その中で出来る最大限を後世に伝えてもらえればと思います。
それが多分一番の被災者の方々へ出来ることだと思います。
■14年前に起きたこと
個人的にもこの14年前は今でも思うことがありました。
14年前は私は明工建設にはいなく、別の会社にいました。
そしてその会社の代表として仕事をしていました。
この3.11まではそんなに儲かってはいませんでしたが、順調に仕事が進み、これからもっと大きくなろうと、新しい社員も雇い、新しく拠点も構えていました。
しかし、あの3.11から世界が少しづつ変わります。
まず、3.11当時はその時も静岡にいたので、直接的な被害は受けませんでした。
むしろ、『被災者の方に出来ることは何だ!』みたいなって、被災者の方々を応援するくらいの立場でありました。
しかし、4月になり、5月になると社会も回りも、まったく別な国ってくらい変わっていきました。
まず住宅の建築がパタッと止まりました。
私のいた会社でも、契約がパタッと止まり、これから工事をしようって人からも、やっぱり辞めたい・・・
そんなことが起こるようになります。
これは私の会社だけではなく、ほとんどすべての会社がそうなったみたいです。
それでも大手の会社などは元からの契約者も多かったので、大丈夫だったと言われていますが、私のいた会社のように地場のしかも御前崎を中心にしていた会社にとっては大打撃です。
大体数字で言うと、年間に250棟程度経っていた御前崎市ですが、それが150棟程度まで減ります。
まだ150棟もあるじゃん?って思われるかもしれませんが、割合で言うと4割減です。
会社としては、やっていけるわけがありません。
そして、その少なくなった椅子を多くの会社で奪うようになっていき、値下げ合戦が始まり、利益も減っていきます・・・
当時は、比喩ではなく本当に寝る暇もなく働き、少しでも利益を少しでもお金を・・・と頑張りましたが、世間ではそれを許してくれません。
こんなご時世に、住宅を建てるとか浮かれたことをするんじゃないよ!
そんな風潮が漂っていました。
そんな中では、私の頑張りは全て『悪いこと』になってしまうのです。
またその頃になると、御前崎と言う田舎の街である変わったことも起こります。
こんな田舎で車社会の町なので、道路に歩いている人なんて、居ても数人、基本は子供くらいの感覚なのですが、土日やたまに平日でもお祭りかってくらい人が集まり、行列を作って道路に歩いているのです。
その人達は、御前崎市にある浜岡原子力発電所の前や、市役所、また人が多く集まるスーパーなどの前を歩き、こう大声で叫んでいたのです。
『原発反対!原発反対!』
それを見た私の子供は当時幼稚園生でしたが、涙を流して私にこう聞いてきました。
『御前崎ってそんなに悪いことしている町なの?私って住んでちゃいけないのかな?でもこの町好きだから出ていきたくないし、どうしたら良いのかな?』って・・・
私は、それに答えることが出来ずただ同じように涙を流すだけでした。
さらに、TVなどで御前崎市が取り上げられる日も増えていきました。
タイトルは・・・
『原発城下町 』
原発がある町は、その交付金や助成金で、分不相応な生活をしているとの特集です。
人口の割には、大きく立派な図書館、市民プール、運動競技場などが取り上げられ、コメンテーターがこんなことを言うんです。
『こんな田舎にこんな立派な施設はいらんでしょ!これこそが原発城下町の無駄遣いてやつですよ!』って・・・
ここ御前崎市では、災害時の対策の訓練を年に数回行います。
それは地震が多いことも理由ですが、やはり原発があるので、そのことも理由にあります。
それは私の子供の頃から小学校や中学校でも行っており、毎年9/1は2学期の開始日であり、防災訓練の日でもありました。
子供の頃は、正直面倒だしなんでこんなことやらないといけないのって思っていました。
でも原発があるお陰で、発電所が無い都会やそういった人達が安心して電気を使えるようになる、だからちょっとの我慢や面倒はしょうがないんだ。
そういって教えらえてきたこともあり、ある意味正義の味方みたいな気持ちでいました。
それが全く反対だと言われる辛さ。
これまで、あなた方の受けていた恩恵を全く無視した発言に、子供だけではなく大人も傷ついていきます。
そんな町に誰が住みたいと思いますか?
誰が家を建てたいと思いますか?
その結果、私の会社は大きな負債を抱えることになります。
当然ですがそういった環境なので、その負債を返せる見込みはありません。
しかし、40年以上続き、多くのお客様がいる会社なのでつぶすわけには行きません。
なので、会社の規模を徹底的に小さくし、従業員も最低限に減らし、そして代表であった私も会社を出ます。
会社を出たことは、自分の力の無さですので納得は出来たのですが、従業員さんを解雇した時は本当に心が苦しかった、痛かった、謝っても謝っても謝り切れなかった・・・
でも何もすることは出来ない。
新しい就職先を見つけて紹介ってこともしましたが、そんな私に紹介された会社には入りたくもないとのことで、本当に何も出来ない自分が嫌で嫌で、ここで言うことが正しいとは思いませんが、別の世界にいく事を真剣に考えたこともありました。
しかし、それも子供の顔を見たらすることも出来ず、心配も掛けられないので、嘘の笑顔を作り、『大丈夫、大丈夫』と言っていた日々。
でも一人になると勝手に涙が溢れてきて、止まらなくて、運転も出来なくて、路肩で1時間以上泣いていて、警察に注意されたこともありました。
■人ってこんなにありがたいんだって思えた
そんな日々を過ごしていたある日、一本の電話で人生が変わります。
『埼玉、東京でやっている住宅会社に入ってみないか?』
当時参画していた、ある住宅のフランチャイズのエリア担当者から、そんなことを言って頂きました。
ただ、その方とは繋がりも無かったですし、なんで私がこんなことになっているのを知っているのだろうと思ったですが、私がこんなことになっているのを知っていた当時お付き合いしていた別の工務店の社長さんが、声を掛けてくれたとのことでした。
また、その雇い先の社長さんも、風の噂で私のことを知っていたそうで、実力があるならやってみたらいいと言ってくれたみたいで、話が来たとのこと。
その時に借金をしてしまっていた私にとっては、本当にありがたいことでしたし、こんな皆を不幸にした私がこんな良い条件に乗っていいのかと葛藤していたら、その紹介してくれた社長さんにこう言われ、埼玉に行く事を決めました。
『これまで人を不幸にしてきたんでしょ?しかもそのままじゃその不幸を背負ったまま生きていくだけじゃん。だったら、人を幸せに出来るくらい大きな人間になれよ。今までに不幸にしてしまった人には申し訳ないかもしれないが、それ以上に多くの人を幸せにすればいいじゃん?そしてそのくらいしか恩返しなんてできないんだよ』
私はそう言われて埼玉に行く事に決めました。
・・・って格好をつけていいましたが、本当は逃げたかったんだと思います。
当時は本心で、そうしたい!いやそうする!!!何て思っていましたが、今から振り返れば、きっと私は逃げたかったんです。
倒産させかけた奴、可愛そうなやつ、家族からもどう触れて良いのか分からないやつ・・・・
そんな状況から逃げて、新しい場所でしがらみなくやりたいって思ったんだと思います。
そういったことで言えば、埼玉は私のこと誰も知らないし、私も誰も知りません。
だからきっとちょうど良かったんだと思います。
私に向かっていた悪意や罵詈雑言から逃げられる良い機会だったのです。
実際には、誰もそんなこと思っていなかったでしょうし、むしろ皆頑張れって応援してくれていたのに・・・
当時の私はそんな応援すら、罵詈雑言に聞こえるくらい、心がダメになっていたのでしょう^^;
でも、当時も今もこの時の感謝は忘れられません。
お陰で今の私がありますし、どのくらい返せたか分かりませんが、多くの方に少しでも幸せをつかんでもらえたと思います。
■被災者の方はもっと苦しかっただろう
なんて、私があたかも被害者のようなことを言っていますが、私以上に、いや私の何倍も何百倍も辛かったのが被災者の方々でしょう。
14年経った今でもその傷はきっと癒えることはないのかなとも思います。
そんな人を今後1人でも増やしたらいけないと思っています。
そして私のしている仕事はそれをすることが出来る。
地震や災害から、幸せを奪うことを防ぐことが出来ます。
そんな誇れる立派な仕事をさせてもらえていることに、本当に感謝しています。
14年前のあの時。
別の世界に旅立つことをしなくて良かった。
お陰で拙いかも、少ないかもしれないですが、色々な人達に幸せを、そして将来の安心を伝えることが出来る。
そんな幸せな人生をこれからも噛みしめて、今日からまた1年生きていきたいと思います。
そして、このことは、生涯を掛けて後世に伝えなくてはいけないと思っています。
それが私に出来る、唯一の罪滅ぼしかもしれません。
そして、この記事を読んで頂いた皆様にもお願いしたいと思います。
14年前の出来事を、風化させず、後世に伝えていってください。
ただ、このことに触れたくない人も多いので、おおっぴらにする必要はないと思います。
自分の子供や、周りの人に伝えるだけで十分です。
私達、日本に住む人は昔からこういった災害に打ち勝ち、そしてそのことを後世に伝え続けてきました。
それを私達で止めてはならない。
災害で苦しむ人を1人でも減らさないといけない。
なんだか暑苦しい記事になってしまいましたが、今日だけはこんな記事でも許して欲しいと思います。
災害で亡くなった方々にはもう聞き飽きたかもしれませんが、ご冥福をお祈りいたします。
また、生きてバトンを受け取った方々には、この言葉を持って今日の最後とさせて頂きます。
『一緒に頑張りましょう!』
今回の長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
2025年3月11日 店長